日米の高校生のオンライン交流会でファシリテーションをしました

 2024年2月7日(水),広島県立広島井口高等学校の総合的な探究の時間において,本コースの草原和博教授と私(大岡慎治,博士課程前期1年)が歴史対話のファシリテーションを行いました。

 井口高校はアメリカ合衆国ハワイ州のアイエア高校と姉妹校提携を結んでいます。今回の企画は両校のオンライン交流会の一環で,草原先生と私は「第二次世界大戦をめぐって記憶すべきこと」をめぐる歴史対話のファシリテーションを担当しました。アイエア高校の生徒5名と井口高校の生徒500名の間で交わされたオンラインでの対話は,これからの学びの形を彷彿させるものでした。

 対話のはじめに,両校の生徒の間にある歴史認識の「ギャップ」が確認されました。同じ「第二次世界大戦をめぐって記憶すべきこと」というテーマをめぐっても,アイエア高校の生徒はアメリカから離れたヨーロッパでの出来事(ヒトラー政権成立,ポーランド侵攻,ホロコースト,D-デイ(ノルマンディー上陸作戦))を中心に取り上げる一方で,井口高校の生徒は日本に関連した出来事(真珠湾攻撃,沖縄戦,原爆投下,ポツダム宣言など)を取り上げます。このことに井口高校の生徒たちは驚きの声を上げていました。さらに,お互いが第二次世界大戦の歴史的「常識」だと思っていた出来事の違い(アイエア高校:ホロコースト/井口高校:ポツダム宣言)を確かめ合うことで,歴史認識の「ギャップ」をより浮き彫りにしていきました。

 「アイエア高校の皆さんにとって“ヒトラー政権成立”が重要なのはなぜですか?」「井口高校の皆さんは“ポツダム宣言”を記憶すべきと考えていますよね。その記憶は“日本はポツダム宣言によって戦争は終わった(終わらされた)”という語りと結び付いていますね」――草原先生のファシリテーションで,両者の歴史認識に「ギャップ」が生じた理由が徐々に解き明かされていきます。最後は両者の間で「ホロコースト」と「原爆投下」は共通して記憶すべきことだとの緩やかな合意が得られ,日米の高校生の歴史対話を終えました。そして対話し続けていくことの重要性と,対話が平和な社会をつくる原点となることが確認されました。

 草原先生が日米の高校生の対話を仲介する一方で,私は「一歩引いたところ」からコメントを行うことで,歴史対話のファシリテーションを支援しました。例えば,こういう発言をしました。「井口高校の皆さんが取り上げた出来事は,いずれも日本が“攻撃された”出来事ばかりですね。戦争では日本が“誰かを傷つけた”出来事もあるはずなのに,それは記憶しなくてよいのでしょうか?」「今回は日本とアメリカの間の歴史認識のギャップの話でした。しかし,“同じ国内にも歴史認識の“ギャップ”はあるはずです。今回の経験を,身近なところに “ギャップ”を見つけ,対話することに活かしてほしいです」――私のコメントは外部参加者だからこそできたものかもしれません。つまり,第三者の立場に立つことで,当事者には見えていないポイントを敢えて指摘し,歴史対話の質を高めることを試みました。

 交流会を終えた井口高校の生徒は,感想として「ハワイと歴史認識の違いがあることが分かった」「対話していくことが大事だと感じた」「日本が攻撃した歴史に触れないのは確かに不思議だと思った」などを挙げており,僅か1時間でしたが,高校生には一定の学びをもたらしたように見えました。上の感想以外にも,夕食を食べながら交流会に参加しているアイエア高校の自由な雰囲気に,日米の学校文化の違いを(画面越しに)感じた生徒も多かったようです。

 近年,現実社会では「歴史をいかに語り継ぐか?」「なぜ彼らの歴史認識と私たちの歴史認識は違うのか?歩み寄ることはできないのか?」といった歴史認識をめぐる問題が問われています。社会科が民主主義社会の市民を育てる教科であるならば,社会科でも積極的に歴史認識をめぐる対話を取り上げ,現実社会の議論に参画していくべきではないでしょうか。しかしながら,歴史対話のファシリテーションは簡単にできるものではありません。「難しいからやらない」のではなく「難しいからこそやってみる」――現実社会と教室をつなぐファシリテーションの第一歩には,こうした発想の転換が必要なのかもしれません。

 今回の交流会の経験を通して,「答えのない問い」を子どもたちと考えていくことの面白さと難しさを肌で感じました。この経験をもとに,社会科でこそ求められているファシリテーションについて探究し,社会のリアルな課題と解決策をめぐる対話に開かれた,そして多様な他者との対話に開かれた教室づくりを追究していきたいです。

(執筆:M1 大岡慎治)