大学院の授業で東広島市高屋町白市のフィールドワークを行いました。

 6月1日(水)に,大学院の授業「環境・社会と学習材デザイン基礎研究(社会・地理歴史)」(熊原康博准教授担当)において、東広島市高屋町白市周辺でフィールドワークを行いました。

 事前学習として,熊原准教授が作成された資料や対象地域の地形図を参照し,白市は日本では珍しく尾根の上に集落が立地していること,水が得にくい条件を生かして江戸時代末期からお茶の栽培がおこなわれてきたこと,集落の生活用水を確保するために様々な工夫が行われてきたことなどを学びました。

 現地ではまず,JAのお茶工場を見学しました。この工場はJAが所有する県内で唯一のお茶工場だそうです。令和2年度の統計資料(農林水産省作物統計)によると,生産量は言わずと知れた静岡県が1位で約25,200トンの生産量を誇り,近年ペットボトルの緑茶になる茶葉の生産が伸びている鹿児島県が2位で23,900トンとなっています。一方当日案内してくださったJAの職員の方の話では,広島県全体で茶葉の生産量は約70トン,白市全体では2トンほどと極めて小規模な生産とのことでした。

 こちらの工場では白市や東広島市内の各地区からそれぞれの農家が摘み取った茶葉を持ち込み,蒸し,乾燥,丸めるといった工程を専用の機械で行っています。茶葉は基本的に年間を通じて生産が可能ですが,この工場は1番茶と呼ばれるこの時期に摘まれたものだけを加工するため,1年間のうち2週間程度しか稼働していない幻の工場となっています。農家は持ち込んだ茶葉を手数料を支払って加工してもらい,自家消費用として持ち帰るか,決められた価格によってJAに買い取ってもらうかの選択が可能であり,買い取られた茶葉は上記のはとむぎ茶の原料の一部として利用され,東広島市内のJAや道の駅などで販売されているとのことでした。生産量が少ない一方で工場の稼働に必要な機械のメンテナンスコストや人件費,買い取り価格の安さなどにより,茶葉加工事業自体の収支は完全に赤字だそうです。それでも何とか工場の稼働が続く現状は,江戸時代末期から最盛期や衰退期を経ながらも脈々とこの白市周辺でお茶づくりが続いてきた伝統を絶やさぬようにという生産や加工に携わる人々の想いに支えられているのではと感じました。

 その後は白市の街並みを散策しました。白市は中世の城下町を起源とする集落であり,その歴史は古く,瀬戸内と県北を結ぶ商業の町として栄えていました。防火対策としてうだつを備えた古い町並みが今も多く残っています。江戸時代には三次,久井と並んで牛馬市が開かれ,最盛期には1日500頭もの牛馬が集まったそうです。市の開催期間中には歌舞伎が上演されており,当時,浅野藩内で歌舞伎の興業が可能な町は白市を含めて3か所だけだったことからも,当時の白市がいかに栄えていたかを感じることができました。

 白市の周囲には5つの“川”と呼ばれる浅い井戸があり,簡易水道が引かれるまで人々は水場を共同で利用してきました。住宅街の中にあるトタン屋根に覆われた水場は少し前まで利用された面影が良く残っており,その管理にも大きな手間がかかったこと,防火水槽としての役割も果たしたことなど,白市の人々の生活とその苦労を鮮明に伝えています。

 学習指導要領における地理的な見方・考え方の文脈でとらえると,広島県内でも珍しいお茶の生産や,尾根上にある集落など地方的特殊性を多く備えた白市の特徴と魅力に気づくことのできた大変有意義な巡検となりました。

(M1首藤慧真)